ワ十d句

January 0212000

 留守を訪ひ留守を訪はれし二日かな

                           五十嵐播水

句で「二日」は、正月二日の意。以下「三日」「四日」「五日」「六日」「七日」と、すべて季語である。最近では「二日」も「三日」もたいして変わりはしないが、昔はこれらの日々が、それぞれに特別の表情を持っていたというわけだ。「二日」には初荷、初湯、書き初めなどがあり、明らかに「三日」や「四日」とは違っていた。年始回りに出かけるのも、この日からという人が多かった。私が子供だったころにも「二日」は嬉しい日だった。大晦日と元日は他家に遊びに行くのは禁じられていたから、この日は朝から浮き浮きした気分であった。掲句は、賀詞を述べようと出かけてみたらあいにく相手が留守で、やむなく帰宅したところ、留守中に当の相手が訪ねてきていたというのである。どこで、どうすれ違ったのか。いまならあらかじめ電話連絡をして出かけるところだけれど、昔は電話のない家が大半だったので、えてしてこういう行き違いが起きたものだ。ヤレヤレ……という感興。作者の五十嵐播水は1899年(明治32年)生まれ。虚子門。百歳を越えて、なお現役の俳人として活躍しておられる。あやかりたい。(清水哲男)


December 30122001

 左右より話一度に日短

                           五十嵐播水

語は「日短(短日)」で冬。一日が二十四時間であることに変わりはないけれど、日照時間が短いと、追い立てられるような気分になる。とくに多忙な歳末ともなれば、いっそう強く感じられる。掲句は歳末とは無関係ながら、この時期に読むと、より句意が実感として鮮明になるようだ。忙しいから、話かけるのにも、とかく一方的になる。折り入っての話なら別だが、ちょっとした用事を頼んだりする際には、相手の状態には無頓着に話しかけがちだ。うっかりすると、電話中の人に話しかけたりしてしまう。したがって「左右より話(が)一度に」衝突し、ちょっと待ってくれよと、それこそ左右に手を広げることになる。よくあることではあるが、この状態を「日短」に結びつけた腕前はさすがだ。言われてみれば、なるほどである。しかも「日短し」とは詠まずに、あえて「日短(ひみじか)」と四音に短く止めたところが、「短日」の雰囲気とよく通いあっている。ただ、作者はたしか関西の人だから、あるいは「ひぃみじか」と関西弁で五音に読ませるつもりだったのかもしれない。そうだとしても、字面的には収まりはよろしくない。中途半端だ。やはり作者のねらいは、発音はともかくとして、この収まりの悪さを百も承知でねらったのだと思われる。『新歳時記・冬』(1989)所載。(清水哲男)


June 2662005

 家中が昼寝してをり猫までも

                           五十嵐播水

語は「昼寝」で夏。この蒸し暑さで、例年より早く昼寝モードに入ってしまった。昼食後、すぐに一眠り。建設的な習慣はなかなか身につかないが、こういうことだとたちまち身になじんでしまう。心身が、生来無精向きにできているようだ。さて、掲句。まことに長閑で平和な情景だ。屈託のない詠みぶりとあいまって、解釈の分かれる余地はないだろう。気がつけば、自分を除いて「猫までも」が熟睡中だ。ならば当方もと、微笑しつつ作者も枕を引き寄せたのではあるまいか。ただし、人間を長くやっていると、こうした明るい句にもちょっぴり哀しみの影を感じるということが起きてくる。すなわち、長い家族の歴史の中で、このように一種幸福な状態は、そう長くはつづかないことを知ってしまっているからだ。そのうちに、いま昼寝をしている誰かは家を出て行き、誰かは欠けてゆく。家族の歴史にも盛りのときがあり、句の家族はまさに盛りの時期にあるわけだけれど、哀しいかな、今が盛りだとは誰もが気がつかない。後になって振り返ってみて、はじめてこの呑気な情景の見られたころが、結局は家族のいちばん良いときだったと思うことができるのである。切ないものですね。あなたのご家庭では、如何でしょうか。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 03122006

 暦売る家あり奈良の町はづれ

                           五十嵐播水

レンダーというものは、今でこそ10月くらいからデパートでも書店でも売っています。また、酒店や会社からただでもらう機会もすくなくありません。しかし昔は、「暦屋」なるものがあって、特定の場所で売られていたようです。たかが印刷物ですが、やはり印刷された数字の奥には、それぞれの日々がつながっており、人の生活にはなくてはならないものです。「古暦」といえば、過去の時間がたっぷり詰め込まれた思い出の集積です。それはそれで捨てがたいものがあり、見ていて飽きないものですが、この句が詠んでいるのは、もちろん「初暦」です。まだなにも書かれていない、まっさらな日々の一束(ひとたば)です。暦を売る「家」とあり、「店」とはいっていないところを見ると、大げさに店を構えているのではなく、片隅で、数冊の「日々」を商っているのでしょうか。奈良の町はづれに、古い時代を身に纏(まと)ったようにして暦を商う家があります。「奈良」という地名が、悠久の時の流れを感じさせ、その時の流れから、一年分を切り取って、店先で売り出しているようです。句の端から端までを、きれいに「時」が貫いています。『合本俳句歳時記 第三版』(角川書店)所載。(松下育男)




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